2026.07.22

孤独と余白の五千キロ。—サバティカル休暇で日本を縦断した30日

Akihito Mizuno

こんにちは、水野です。

最近社内で「サバティカル休暇のとき、何をしていたんですか?」と聞かれることが増えました。ありがたいことに2022年以降に入社したメンバーが増えてきたということでもあります。制度の名前は社内で知られていても、1ヶ月間どう過ごしたかは積極的に共有されていませんでした。これはもったいないことだと思い、まず言い出しっぺの僕から書いてみることにしました。

改めてギアエイトには「サバティカル休暇」という福利厚生があります。勤続5年を経過したスタッフが1ヶ月間連続して休める制度です。最初に試したのは僕で、2022年のことでした。以来2026年7月現在で6名が経験しています。

そもそも、どんな制度なのか

仕組みとしてはシンプルです。

  • 対象:勤続5年を経過したスタッフ
  • 期間:30日間の連続休暇
  • 内訳:土日+有給休暇+会社から付与する公休

この30日間は、悪いことじゃなければ何をしても構いません。旅に出るのも、家族と過ごすのも、資格を取るのも、期間中全て引きこもってみるのも自由です。リフレッシュして復帰すればOK、何をしたかを会社に報告する決まりも勿論ありません。

なぜこんな制度をつくったのか、まずはそこから書いてみます。

「安全な状態で1ヶ月休む」という発想

やってみようと思い立ったのは2020年、新型コロナウイルスが猛威を振るっていたころです。どこにも出かけられず、人と会うことすら難しい。思い出すだけでも嫌な閉塞感のなかで、状況が落ち着いたら早めに新しいことを始めたい、とぼんやり考えていました。

ただ、それは自分だけが享受するものにはしたくありませんでした。一緒に働くメンバーも使える福利厚生にしたい、できればチームが更に強くなるようなものにしたい。そう思ったのが始まりでした。

加えて有給休暇のことも気になっていました。制度はあるけど、実際には消化しきれない人が多い。それなら有給をきちんと使いきれる機会を、こちらから用意するのはどうだろうと考えたのです。

そして、これがいちばん大きな理由なのですが、社会人になってから自分のメンタルや経済状態が安定している時にまとまって休める1ヶ月って、日本ではほとんど存在しないですよね。長い休みが生まれるのは、たいてい退職してから転職までの合間です。でもそれは、収入が途絶えた先の見えない状態でのお休みです。

生活の基盤がある状態で、心配ごとなく1ヶ月休めたらきっと心も落ち着く。その時にこそ本当の意味で自分を休ませたり、考えごとを深めたりできるんじゃないか。これがサバティカル休暇でいちばん大事にした考えでした。

5年働いた人に1ヶ月、制度設計の理由。

条件を「勤続5年」「1ヶ月」に決めたのには、いくつかの理由が重なっています。

まず5年。このくらいの時期になると、大体の仕事は自分でこなせるようになっています。後輩ができて、教える立場にもなります。同時に自分の将来やこの先の働き方について、あらためて考えたくなる時期でもあります。そして、会社にも充分に力を貸してくれている。それらがちょうど重なるのが、5年目あたりだと思ったからです。

次に1ヶ月という長さ。2週間だと、どうしても「長めの休暇」の延長にとどまって、頭が仕事から離れきらないんですよね。1ヶ月というまとまった余白があると、生活のリズムそのものが一度切り替わる。日常から本当に離れられる境目が、このあたりにあると思っています。後輩に安心して仕事を託せる期間でもあり、海外など遠出をしても慌てずに済む長さでもある。「その年だけは11ヶ月しか働かない」と考えると、1ヶ月という区切りには、ちょっと特別な意味が出てきます。

会社から公休を足す設計にしたのにも理由があります。土日を除くと、有給が20日分残っていない人もいます。その差を会社が公休で埋めるわけですが、これは単なる穴埋め以上の意味があると考えました。「会社としても、メンバーにしっかり休んでほしいと思っている」——その意思を、制度のかたちで示せると思ったからです。

制度をつくるにあたって、社内から不安や反対の声はほとんど出ませんでした。実証実験のつもりで、まず僕が先に取得し、うまくいかなければ見直せばいいと考えていたのも大きかったと思います。

そして、これは制度を設計しながらずっと考えていたことなのですが、数日の休暇では日常の延長でリフレッシュはできても、「ずっとやりたかった大きなこと」にはなかなか手が出ません。1ヶ月あれば、普段は選択肢にすら上がらないことができる。せっかくなら、そういう時間にしてほしいと思っていました。

制度の話はこのくらいにして、ここからは私自身30日間をどう過ごしたのかを振り返ってみます。

「知らないは、楽しい。」を、確かめにいく

ギアエイトが大切にしている価値観として「知らないは、楽しい。」という言葉があります。知らないことを怖がらず、知る楽しみを分かち合うところから新しい価値が生まれる、という考え方です。仕事の進め方も「自分で体験する」「分かるまで調べる」「隠れた良さを見つける」などを大事にしています。

この1ヶ月は、その価値観を頭ではなく体で確かめにいく時間にしよう。そう決めました。だから行き先は、飛行機でどこか一箇所へではなく、車で日本をぐるりと巡ることにしたんです。旅の目的は、有名な観光地を回ることではありません。日本という身近な国を、自分の目と足でもう一度探求すること。加えて一人きりの時間を使って、思考を可能な限り深めることでした。

行き先は残雪残る北海道から桜前線を追いかけて暖かい南へ。札幌を出て、鹿児島県までキャンプをしながら車で往復する。日程は約30日。種子島には高校時代のクラスメイトがいて、彼がオーナーのホテルを折り返し地点としました。距離にすると往復でおよそ5,000キロ近い旅になりました、とにかく長かった。思考も深まるわけです。

01:45 吹雪の函館のフェリーターミナルで乗船待ち


ひたすら南下して暖をとる 【1週目】

札幌の自宅から大量のキャンプ道具を積み込み函館へ向かい、深夜の津軽海峡フェリーで早朝の青森に上陸。そこからノンストップで山形の銀山温泉を目指しました。室町時代に採掘場として栄えた延沢銀山近くにあり、鉱山で働く方達を癒した湯治場です。宮城県境に近い銀山温泉の山道はまだ雪深く、スタッドレスタイヤのまま来てよかった、と何度も思いました。

18:15 夜の銀山温泉、運転でガチガチになった身体を温泉で解す

ところで山形といえば蕎麦が有名なのを知っていますか。付近を巡りながら、なぜ米以外に蕎麦が名物なのだろうと気になって調べてみました。蕎麦はもともと、米のとれない痩せた土地で育てられてきた作物です。ところが山形の場合は少し様子が違い、かつて中山間地で代用食として食べられていた蕎麦は、灌漑が進んで稲作ができるようになると、一度はほとんど途絶えたとのことです。

今の「そば王国 山形」は1970年代以降に水田をあえて蕎麦畑へ転作したところから広まったものと知りました。「米が作れないから蕎麦」だと思い込んでいた土地は、「米が作れるのにあえて蕎麦」を選んだ名産地でした。こういう発見があるたびに、知らないは楽しいを体現している休暇だな、と一人で納得していました。

また東北を走っていて強く感じたのは、土地の空気の濃さです。うまく言えないのですが、山や自然に対する畏敬のようなものが、風景のあちこちに残っている。縄文の遺跡が数多く見つかる土地でもあり、はるか昔の時間が地続きでそこにあるような感覚がありました。

12:42 東北には立派な道の駅がいくつもありました

米沢を経由して那須高原のキャンプ場へ。この夜は突風でテントが飛ばされるかと思いましたが、なんとか無事に朝を迎えました。風速8mを超えるキャンプはしないと決めていますが、この日は風速10m。悩んだ末にチャレンジして良かったです、段取りは大切ですね。そして翌日は那須から箱根までのロングドライブ。キャンプとホテルを交互に挟むことで、体への負担を分散させていました。富士吉田では常に富士山を横目に走り、その裾野の広さに見とれた記憶があります。

ところで富士吉田には「すりだね」という伝統的な調味料があります。七味をベースに山椒や胡麻などを入れて油で炒めた特徴的な調味料です。うどんに入れると味がガラリと変わって二度楽しめます。このように食材を買い足しながら富士川、そして三重の鳥羽へ。1週間で西日本まで来られた、という安堵の強い一週目でした。

19:10 鳥羽の港、もう少しすると漁火がでて更に幻想的になります


船に乗って気づく、もうひとつの日本地図 【2週目】

鳥羽の早朝は絶景でした。入り組んだ海岸線の地形が、本当に美しい。伊勢をお参りしてから紀伊半島を横断し、憧れだった淡路島でキャンプをしました。名産の玉ねぎを買い込んで、海のすぐそばにテントを張る。移住先として本気で調べたくなるくらい、良い場所でした。

06:15 瀬戸内の夜明けを眺めながらの焚き火

この週で特に印象に残っているのは、地味に思えるかもしれませんが、四国の八幡浜港から九州の別府へ渡るフェリーです。四国から船で九州へ抜けられる、という当たり前のことに、実際に乗ってみて初めて実感が伴いました。地図の上では知っていても、体で知るのはまったく別のことなんですよね。

デッキから右手に、細く長く伸びる佐田岬半島が見えます。日本一細長い半島だそうです。乗り込んだ八幡浜は、九州や関西との海の交易で栄え、かつて「伊予の大阪」と呼ばれた商都でした。今もみかんと、四国有数の魚市場の町です。港町の成り立ちを知ると、ただの乗り換え地点だった場所は急にはっきりとした輪郭が見えてきます。地図を眺めているだけでは、たぶん一生気づかないままだったと思います。

13:04 宇和島運輸フェリーで愛媛八幡浜から大分の別府へ。

歴史も食べ物も人も大好きな鹿児島で一泊し、フェリーで種子島へ渡ろうとしたところ、年度末の転勤や進学で種子島までの船が満席。車を乗せられず、急きょ飛行機で種子島に入ることになりました。唯一大きな予定変更はこれくらいでした、次回はしっかり準備して種子島まで行くつもりです。

門倉岬で数年ぶりに会った同級生は、相変わらず陽気でのんびりしていて、その空気に癒されました。16歳のころの話から、46歳になった今の話まで、大いに盛り上がりました。札幌で育った二人が、種子島で焚き火を囲んで話している。30年前には、想像もつかなかった光景です。人生がどこへ向かうかは、本当に誰にもわからないものだなと思いました。

18:51 鉄砲が伝わったとされる門倉岬の突端に建つThe Beach Club SANDALWOOD


桜前線を追い越して、歴史の中を走る 【3週目】

3日間の種子島滞在を経て一気に福岡まで戻りました。ここで桜前線に追いつき、そのまま追い越しました。満開の福岡は天気も良く、食事もおいしく、大満足です。都会らしい都会に宿泊したのは今回の旅で福岡だけでした。

もう折り返しか、と少しの寂しさを感じながら、関門海峡を渡って長門へ。日本海沿いでキャンプができると聞いて向かったのですが、着いてみるとすさまじい土砂降り。波が防波堤を越えてきそうな海のそばで、キャンプ場にたった一人で泊まりました(完ソロ)。翌朝には水没しているかもしれないと本気で考え、電子機器を全部テントの天井に吊るして眠ったのは、今となっては良い思い出です。

16:18 荒れ狂う直前の長門、波と雨の轟音でハードキャンプ

翌日は境港のホテルで、濡れた服とギアを乾かして一泊。乾いた布団のありがたさが身にしみました。疲れが取れたところで、少し戻って出雲大社へ。旅と会社の無事をお願いしてきました。

09:29 出雲大社の下り参道を通ってお参り、旅と会社の無事を祈願

ご存知の方もいると思いますが、出雲大社の参道は全国でも珍しい「下り参道」なんです。神社の参道は通常登っていくものですが、ここは鳥居をくぐると本殿に向かって下っていく。理由には諸説あって、下り坂を歩くうちに自然と頭が下がり、へりくだる姿勢になるからという説や、大国主大神が目に見えない世界を司る神だから、その世界へ下っていくのだ、という説などがあるそうです。どれが本当かはさておき、意味を知ったうえでもう一度その坂を歩くと、まったく違う道に感じられました。少しでもその土地の歴史や文化を学んでから訪れるだけで旅は何倍も楽しくなると思います。知る前と知った後では、同じ景色が違って見える。この感覚は、旅のあいだ何度も訪れました。

そこから内陸に入り、姫路では満開の桜の下でのんびりキャンプ。翌日は北陸へ抜けました。金沢を歩いていて気づいたのは、城下町は堀や川を渡った瞬間に街の空気がガラリと変わる、ということです。たとえば東茶屋街のそばを流れる浅野川と、城下を流れる犀川。橋を一本渡っただけで、なぜか土地の匂いや気配が切り替わる。海外に着いて飛行機を降りたとき、湿度や匂いで「異国に来た」と感じることがありますよね。あれに近い体験が、同じ国の、川一本を挟んだだけで起きるんです。

17:26 姫路にある牧野キャンプ場は快晴、色々乾かしました

北陸を走っていると、北前船の記憶にも何度も出会いました。北前船は、江戸から明治にかけて大阪と北海道を日本海回りで結んだ商船のことです。単に荷物を運ぶのではなく、船主が寄港地ごとに積み荷を売り買いしながら富を築いていきました。加賀の橋立は、船主が集まって「日本一の富豪村」と呼ばれたほど。富山の岩瀬には、全国から取り寄せた銘木や銘石をふんだんに使った豪商の邸宅や、醤油・酒・味噌の大きな蔵が今も残っています。その北前船が、北海道の昆布やニシンを本州へ運んでいた。札幌から遠くまで来たつもりでいて、気づけば北海道と縁の深い港町を巡っていたわけです。

17:01 石川県にあるキャンプ場、北陸で買い込んだ食べ物を一気に消費


予定を手放したら、富士山が待っていた 【4週目】

北陸から新潟へ。日本海の春は魚が絶品で道の駅のたびに目移りします。キャンプ飯がこんなに豪華だったことはありません。

新潟で一泊し、翌日は笹川流れを眺めながら秋田へ抜ける予定でした。ところが、東北の天気予報が最悪だったんです。日本海の荒れた波は、長門で十分すぎるほど味わっています。できれば天気のいいルートで締めくくりたいと思いました。

天気図を見ると、山梨が晴れている。ということは行きのタイミングでは満員で泊まれなかった、あの「ふもとっぱらキャンプ場」に泊まれるかもしれない。そう思い立って進路を大きく変えました。新潟を早朝に出て、5時間かけて一気に南下します。

着いた瞬間、目の前にとんでもない富士山の景色が飛び込んできました。

05:58 ふもとっぱらキャンプ場から見た富士山と朝日

美しすぎて予定を延ばしてもう一泊してしまったほどです。この旅のハイライトと言っていい景色でした。目の前の鏡池も、この裾野の平らな土地も元をたどれば富士山の噴火で流れ出た溶岩が川や谷をせき止めてできたものだと知りました。かつては大きな一つの湖だったものが、噴火のたびに溶岩で分断されて、今の富士五湖になったそうです。穏やかに見えるこの絶景が、激しい火山活動の結果なのだと思うと、風景の奥行きがまた一段と深くなりました。

05:52 キャンプ場内にある鏡池からの逆さ富士、晴れて良かった

おかげで予定どおりには帰れず、敦賀からの夜のフェリーをなんとか押さえて、絶景のふもとっぱらから北陸・福井まで引き返しました。この頃にはもう日本中を走り回った結果、5時間程度の移動ならどこへでも行ける体になっていました。おかげで夜もしっかり眠ることができていました。

最終日は敦賀から苫小牧まで21時間の船旅を楽しみ、ようやく自宅に帰り着きました。大量の思い出と片付けを残して、計22泊の旅はおしまいです。

21:30 敦賀から苫小牧へ向かうフェリーの案内板、これに乗船できました

一人の時間が、考えを深くする

この旅で得たものは何かと聞かれたら、まず挙げたいのが「一人でいることの効能」です。

車での移動とキャンプなので、毎日は殆ど一人きりでした。そしてそれはそれで思いのほか心地よかったと記憶しています。車の中では、周りを気にする必要がありませんので、思考が自然と声に出ます。普段、頭に浮かんだことをそのまま口にするようなことはありません。でも、声に出して自分の耳で聞いてみると、考えが先へ進んだり、別のアイデアが浮かんできたりします。自分ともう一人の自分がずっと会話しているような、文字にするとだいぶ危ないですが、これがなかなか新鮮でした。

もうひとつ気づいたのは世の中がいかに決まった段取りで回っているか、ということです。明日どこで何をするかを毎朝好きに決められるのは、確かに自由でした。ただ一定の枠のなかで過ごすほうが、案外ラクなのかもしれないとも思いました。

実際に旅の後半になるにつれ、だんだんと会社に行って仕事がしたくなっていました。大変なこともあるけど自分は仕事が好きなんだな、と実感しました。

会社のほうは、どうだったか

優秀なメンバーのおかげで仕事は、きちんと回っていました。

特に手応えを感じたのは、ディレクターたちの変化です。普段最終的に頼る人がいるという前提で仕事を回している場面が少なからずあります。それが1ヶ月、連絡がつかない。自分で判断しなければならない状況がいくつもあったはずです。何度かそれを繰り返すうちに覚悟のようなものが芽生えたのだと思います。全体として確かに伸びたと感じました。

私自身も、物理的に離れた場所からメンバーと関わることで、近くにいると見えない良さに気づけました。

正直に言えば、これはサバティカル休暇であると同時に実証実験でもあったので、8割は休暇、2割は仕事という、軽く仕事に触れ続けるくらいの状態でした。経営者ならではの、条件付きの休みだったとも言えます。それでも事前にある程度シミュレーションしていた分、想定と現実のズレは意外なほど少なかったです。

ただひとつ、想定と違っていて嬉しかったことがあります。僕がいないと回らないという状態ではなくなっていたことです。5年働いた先輩が一時的に抜けることで後輩が育つ、というのは制度を設計したときに期待していた効果のひとつでしたが、それが自分のターンで既に証明された。制度をつくった側として、これ以上ない結果でした。

これから

サバティカル休暇には採用の場面での訴求力や、復帰後のモチベーション向上といった、わかりやすいメリットもあります。育った後輩に今までの仕事を任せることができれば、先輩は新しい仕事に挑戦できる。会社としては、それだけでも十分に意味があります。

ただ実際に1ヶ月休んで、車で日本を巡ってみていちばん強く感じたのは、もっと個人的なことでした。身近だと思っていた日本は、少し目を凝らすだけで知らないことだらけでした。そして知れば知るほど楽しかった。ギアエイトが掲げる「身近な存在の本質的な良さを明らかにする」という仕事は、こういう眼差しの延長にあるのだと、1ヶ月かけて実感しました。

私に続いた5人が、それぞれ何を考え、どんな30日間を過ごしたのか。私はまだ断片的にしか知りません。これから順番に、このジャーナルで書いてもらう予定です。同じ制度を使っても、まったく違う旅路になっているはずで、私もそれを読むのを楽しみにしています。

Gear8の文化やお仕事の進め方に興味のある方はいつでもご連絡ください。
それでは次回のサバティカル休暇レポートをお楽しみに。

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Akihito Mizuno

1977年1月北海道札幌市生まれ。2000年に大学を卒業しホーマック株式会社に入社、デジタルハリウッド札幌校での勉強を経て、2004年デザイナーに華麗なる転身をしました。白髪になる前から担当動物はシロクマです。 創業する2008年までは、グラフィックデザイナーからウェブデザイナーそしてウェブディレクターとして濃密な4年間を過ごし、Gear8 Graphicsとして個人事業を開始しました。翌年に法人化し、株式会社Gear8として活動を開始。 大切にしていることは一人の時間。様々な業種や職種の皆さんとお話する仕事なので、森の中で自分と話す時間をなくさないようにしています。最近は月の1週間を札幌以外で過ごすことにしています。